仲間と歩く、あみいの日記☆

双極性障害あみいのひとりごと~

不育症・私が子供に出会うまで5

妊婦生活

 

妊婦生活って


あれなんなんだろう。

言葉にしようがない幸せ。

 

自分のお腹が大きくなる幸せ

我が子が育っているこが目に見えてわかる。

いつもお腹に手をあてて話しかける。

 

自分はひとりじゃなくて

もうひとりお腹に人間がいるなんて不思議すぎる。

 

そして毎朝起きてお腹の赤ちゃんが動き出すと

「ああ今日もちゃんと生きてる。よかった。」

って安心する。

 


私が妊婦だった頃、

体系を隠さない服装が多かったから

 


私の妊婦服もストレッチのきく

ざ・妊婦。って感じのラインの出てるワンピースが主。

 

妊婦服を買う楽しみ、出産準備の楽しみ、

 

お風呂で赤ちゃんのかかとが

お腹から飛び出るのがわかって感動したり

つついたら同じところを

つつき返してきたのを感じて喜んだり

 

かといったら赤ちゃんが

動きすぎてお腹が痛くなったり

 

なかなか赤ちゃんの名前が決まらなくて悩んだり。

 

言葉にならない

あたたかな幸せ。

 


体重増加はプラス10キロ。

不安が頭から離れることはなかったけど

穏やかな生活を送りました。

 

 

そして里帰り。

 

それからは安産体操に通ったり

自宅で呼吸法の練習をしたり

いつ赤ちゃんが家にきてもいいように

部屋の準備をしたり

  

実家は慌ただしくなりました。

 

そして妊娠10か月をすぎて

  

張り止めとアスピリンの内服が中止になりました。

  


赤ちゃんはいつ産まれても大丈夫な体重になった。

ほんとうに、育ったんだなぁ・・・と嬉しかった。

「私のお腹が大きくなって赤ちゃんが育つなんて」

 

こんな日がほんとうに来るなんて、信じられなかった。

私にとっては、すごすぎた。

 

 その後の検診で、

「赤ちゃんは元気で、いつ出てきても大丈夫だけど、

赤ちゃんのももにへその緒が巻きついてるね」

と先生が。

 

今までの死産と流産のことがあるから

より安全に確実に赤ちゃんを出すため

 

帝王切開にしようと言われた。

 

正直びっくりしたけど

ここまでがんばってきた、

絶対にこのお腹の赤ちゃん、無事に産みたい。

 

私は同意した。

そして先生がカルテに記した文字。

帝王切開の理由→臍帯けつらく(へその緒が巻き付く)。

そして「貴重児」。

 

貴重児とは、妊娠、出産で無事に産まれる確率の低い赤子のこと

又はようやく授かった赤ちゃんなどのこと。

 

そしてその翌週、帝王切開による入院が決まった。

 

 

その日まで、胎動が毎日ちゃんとあるか

こんなにも幸せなはずなのに、不安が消えなかった。

 

いよいよ帝王切開の前日

入院の日。

 

やっとここまできた。

長い道のり。でもこの子も一緒に頑張った。

 

 

私が母になる日。

人生で一番幸せな日が明日、来る。

 

 

女性がママになることは、

当たり前にできることなんかじゃないです。

 
奇跡なんだって

 
私は思います。

 

 

読んでくださって、ありがとうございました(●・ω・●)

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不育症・私が子供に出会うまで4

 

 入院生活

産婦人科のご飯はおいしいです。 


おやつも出ます。

 

しかも豪華なんです。

 

入院中の楽しみはご飯とおやつ。

 

でも・・・

診察で外来に下りるときは不安で仕方がない。

 

診察室が怖かったです。

期待と不安が一つになった感じ。

「赤ちゃん大丈夫だろうか。どのくらい育ってるかな」

 

お腹の張りが強かったため、張り止めと引き続きアスピリンは内

服。

 

そんな日々が何日も続き

妊娠3か月も過ぎて4か月に入りました。

 

診察で 

お腹の上から赤ちゃんの心拍の音を聞きました。

 

力強い音。

  

赤ちゃんが頑張っている音。

 

赤ちゃんが生きている音。

  

うれし涙が流れます。

 
いつも看護師さんがそばで微笑んでくれた。

これぞ天使の笑顔。。。


初期流産の危機は超えた。

5回繰り返した稽留流産の時期は完全に超えました。 

 

うれしかったです。

 

つわりも終わって落ち着いて

 

洗髪の許可が出ました。

週2回病院に来てくれる床屋のお姉さんに

髪を洗ってもらう。 

 

そして

妊娠4か月が過ぎた。

まだ胎動のある時期ではない。

毎日もんもんと過ごす日々は長い。。


ひたすらご飯とおやつだけが楽しみな日々。

 

シュークリームの日が好きでした。


安定期まで遠い。

  

先生や看護師さん

毎日顔を合わせるクリーンスタッフの方に励まされながら

 


私のお腹は妊娠5か月を過ぎました。

 


そして、死産したときのあの週数がきました。

 

 
赤ちゃんの心臓は

元気に動いていました。

 

「赤ちゃん元気に生きてるよ。うん。大丈夫だね」

 


笑わない先生がニコッっとしました。

 

私は泣きました。

 

その時「性別どっちか知りたいか?」って先生が。

 

「はい知りたいです」私は言った。

 


「ここついてるね。男の子ね」

 

 

赤ちゃん、男の子。

 
うれしい。

まだ見ぬ赤ちゃんが、かわいかったです。


「そろそろ赤ちゃんが動くのがわかるからね。赤ちゃん元気だ。

これで死産した時の週は超えたね.。もう大丈夫だ。」

 


それからは安静度が下がり

 

一気に、私のお腹が大きくなった。

不思議な感覚。

 

そして間もなく

お腹の中の赤ちゃんが動いた。

 

本当に不思議な感覚。。

お腹に手を当てて愛おしく思う。

この気持ちなんなんだろう。

 

そのうち


入浴も洗髪もできるようになった。

 


病棟の廊下を歩いて、階段にかけて貼ってある

お産した赤ちゃんとお母さんの写真を見にいきました。 

 

赤ちゃんってみんな同じ顔だなあ。

 

そんな事を思いながら廊下を歩くことを日課として

 
入院生活も楽しくなってきたころ

 


6か月を過ぎて、私は退院しました。

 


普通の生活に戻り

 
私は元旦那さんのいる家に戻って

やっと普通の妊婦生活を送った。

 

本当にうれしかった。

 

 

その後の妊婦検診は順調でした。

 

赤ちゃんは元気に育ちました。

 


私の場合は特例で週一の妊婦検診だったから

母子手帳は分厚くぱんぱん。

検診記録の紙を付けたし付けたしです。

 

あとは

里帰りまで油断せずに

楽しみながら、妊婦生活を送りました。

 

 

読んでくださって、ありがとうございました(●・ω・●)

 

 

 

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不育症・私が子供に出会うまで3

不育症と引きこもり

 

 

我が子に出会うことはごく普通に、誰にでもできることじゃな

い。 

  

それまでの私の人生で一番のハードルの高さでした。

   

でも子供に会うための治療の痛みも、通院の大変さも、それにか

かる費用も

ちっとも苦にはなりませんでした。

 


それよりもずっと辛かったことは死産の後の、

家の外から聞こえる子供たちの声。

 
私は引きこもりました。日中は外に出られなかった。

 
元旦那さんの職場の社宅に住んでいたんだけど

毎日外では子供を遊ばせるママさんたちの声や子供たちの声

赤ちゃんの泣き声が・・・

 
耳をふさいでも聞こえてくる。

 
同じ社宅の友人は

「〇〇ちゃんも出てきなよー。」とメールをくれる。

でも、出れなかったんですよ。

 
「〇〇ちゃんなんかより辛い思いしている人はたくさんいるんだよ」

って励ましてくれたけど

  

解ってるけど

  

どうしても無理で、、

ママや子供たちが外から居なくなるのを待って

夕方買い物に出ていました。

 

不妊の方や、不妊治療中の方にはわかると思いますが

町で見る妊婦さんや、赤ちゃん、子供連れの家族を見るのが

本当に苦痛でした。

 

もちろん知人の妊娠にも喜べないし

赤ちゃんの写真も超音波の写真も

直視できずに目をそらして

 

硬い殻に閉じこもって、ほんと貝みたいになっていた。

 

でも、仕方がなかったと思う。

女性にとって子供を産むことは、人生の大大大イベント。

今でも思うけど,

 

結婚する前から

子供が欲しいと思う前から、女性には母性があるんじゃないかと

思う。

 

赤ちゃんを見て、小さな子供を見て、愛おしいと思う

触れたい、撫でたい、抱きたいと思う

守りたいと思う。

 

死産するまでの私は、

社宅の友人の赤ちゃんに頻繁に会いに行っては

抱っこしたり、あやしたり、遊んだり

 

かわいい

かわいいーかわいすぎる!

と溺愛してました。

 
その子が大きくなった今でも

あの頃の気持ちは忘れません。 

 

 

あの免疫療法から間もなく 

私は妊娠しました。

  

最後のチャンスこれで無理ならもう諦めることを決めていたし

それでも希望もありました。

 
心拍が確認できた頃

いつもここでだめになる頃

 

「ここから先、進んだことない。」

 

不安でした。

 

そして

私は実家に帰って安静に過ごすことを決めました。

 

いとこは子だくさん

 

私の親戚、いとこは

 

兄弟そろって

子だくさん。

 

母が「〇〇ちゃん3人目できたらしいよー。また正月が賑やかに

なるねぇー」

っていうのを聞くたびに

本当にスゴイよなぁ・・・って思う。

 

一番上の女の子は現在5人目を妊娠中です。

 

私は5回流産したのに彼女は5人目を妊娠中なんです。

不思議すぎる。

 

何も異常がないのに何で私のお腹では赤ちゃんが育たないんだろ

う。

 

お盆と正月はうちの実家は保育園です。

誰が何を言っているか分からないくらい賑やかです。

うちの母も、流産を経験していて、子供は私一人だけ。

 

なので

お盆、正月は子供たちがたくさん来るから喜びます。

 

そして今でも

「いいねぇ~お姉さん(おばさん)のとこは孫がいっぱいいて

~」

と、たま~にデリカシーのない事を言うときは正直イラ~苦笑

 

入院

 

 

そして

死産ののち5回の稽留流産を経て宿った赤ちゃんは

 

総合病院ではなく

親戚がお産をしたという古い古い小さな婦人科で診てもらうこと

に。

 

あまりしゃべらない男の先生。寡黙な感じ。

初めての診察

超音波で子宮を診た時

「うん。いいじゃないの」

 

一言。

 

念のため、お腹の赤ちゃんにちゃんと血液が届くように、届きや

すいように

血液をサラサラにするアスピリンを服用するように言われまし

た。

 

実家では用心して、食事もリビングまで下りずに、母が自室まで

運んでくれた。

洗面台、トイレは2階にもあるから、お風呂の時にだけ一階に下

りていた。

 

普通は妊娠初期は4週に一度の妊婦検診です。

だけど私は今までのことがあったから週一の検診。

 

間もなくつわりが始まった。

私にとっては、夢にまで見たつわりです。

 

なんか、ドラマで見るのとは違ってた。

私の場合がひどかったのか、食べても吐くことが多かった。

 

そのころ少しお腹の張りがでてきて

ある日少しだけ出血しました。

ほんの一ミリくらい。。。

びっくりして慌てて受診した。

 

超音波での診察のあと

先生は

「赤ちゃんは元気だけど念のため安静入院しようか」

と言いました。

 

不安な気持ちだったけど、でも病院に入院することの安心感も

あった。

 

それから私の安静入院が始まった。

 

トイレと洗面以外はベッド上安静。

 

入浴禁止。洗髪もだめです。

 

お腹に手をあてては

「絶対に絶対に誰にも渡さない」って

 

そればかりを

 

思う日々でした。

 

 

 

読んでくださって、ありがとうございました(●・ω・●)

 


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不育症・私が子供に出会うまで2

誰でも妊娠したら

普通に子供って産まれるでしょ?

 

そう思っていた時の死産からすぐ、

産婦人科では原因追及のためにあらゆる検査をしました。

染色体検査から、血液凝固系、免疫系すべて。

 

でも異常はどこにもなかった。

原因不明でした。

 

「こういう事も中にはあることだから、次は大丈夫よ」

そんな先生の言葉を信じて

 

それから3か月後、私は妊娠しました。

 

嬉しかったです。

でも内心不安でした。また途中で

お腹の中で死んじゃうんじゃないかって。

 

そして検診の時

不安は現実のものとなりました。

 

稽留流産です。

出血も痛みもないのに、お腹の中で赤ちゃんの心臓が止まってし

まう。気づかない。

多くの場合検診で見つかります。

 

鼻を赤くして、泣くのをこらえて診察室から出てくる姿を見て、

元旦那さんはすぐに気づきました。

 

まただめだった。

私って、妊娠はするのに赤ちゃんが育たない子宮なの?

 

先生は「異常はないんだから次は大丈夫。」

 

医学的根拠ではそうだった。

ただ原因不明。

 

流産の手術は日帰りでしました。

そしてまたあの、激痛とのご対面。

子宮口をごじあけるあの瞬間が私は怖くて仕方がなかった。

 

車で病院へ向かう時

病院が近づくと怖くて何もしゃべれなかった。

 

そのくらい、人生で初めて味わった激痛。

油断したらほんと飛びあがる。声が出る。

本当に痛いんですよあれは。。。

 

そして静脈麻酔ののち、掻爬。

 

その麻酔薬の副作用にて帰りは嘔吐。

車で嘔吐。。。

 

それでもあの頃はメンタルも体も今以上にタフだったのかな・・

それからまた3か月後、自然妊娠。

 

そして

まさかのまた

 

稽留流産→手術。

 

 

それをなんと5回も繰り返した。

こんなことって、あるんだね現実に。

 

 

それでも、私は子供が欲しかった。

今はあるか分からないけど

「赤ちゃんが欲しい!」っていう月刊誌を

毎月買って読んでいた。

 

いろんな症例を見ていた。何度も何度も繰り返し読んだ。

 

ていうかほんと

なんで?

 

妊娠はするのになんでお腹で育たないの?

なんの異常もないのに。

おかしいでしょどう考えても。。。

 

その時はまだパソコンもなくて、ネットもしてなくて

得られる情報は、その月刊誌しかなかった。

近くに同じ体験をした人もいないし、みんな無事に産んでいる。

 

どんなに動いても自転車に乗っても

ぎりぎりまで働いていても無事に産む人はたくさんいるのになん

で?

なんでなんでなんで?

 

それしかなかった。

 

元旦那さんはこう言った。

「痛い思いをしてまでも、挑戦しなくてもいい。

痛い思いをする姿を見たくない」って。

 

「夫婦二人でも仲良く暮せばいいじゃないか」って。

 

ありがたい言葉、うれしかった。

 

でもそれでも、私の頭の中は赤ちゃんのことでいっぱい。

どうにか赤ちゃんが、私のお腹の中で育つ方法はないのか

そればかり考えてた。

 

そんな時、月刊誌 「赤ちゃんが欲しい!」にある情報が。。。

 

隣の県にある、ある産婦人科の情報が記載されていたのを見まし

た。

 

その医師はもう白髪のおじいちゃんですが、

それもそのはず、不妊治療で使う「クロミッド」、という有名な

排卵誘発剤があるんですけど

その薬を開発したドクターチームの中の一人だそうです。

 

それけっこうびっくりしました。

確かにその年だからそうだよねって納得な感じ。

 

私のように流産を繰り返す人を「習慣流産」「不育症」

というんですが、

その治療や不妊治療に力を入れている不妊専門の婦人科でし

た。

 

元旦那に言って受診することに決めた。

 

車で一時間。

ビルの中にある小さな古い婦人科でした。

 

しかもまさかの予約制なし。すごい人。座るところない。

 

何時間も待ってやっと診察の時

そのおじいちゃん先生はゆっくりと時間をかけて話を聞いてくれ

ました。

 

習慣流産、不育症の診断を受けたことを伝えると

 

先生はデスクの引き出しを開けて

中に詰め込んだ莫大な数のハガキを私に見せました。

 

それは不育症で死産してきた人や習慣的に流産を繰り返してきた

患者さんが

そこの婦人科の治療を受けて無事、出産できたというお礼のハ

ガキでした。

 

そして先生は言いました。

「ここで免疫療法を受けた人たちが無事出産できた時のお礼のハ

ガキです。

95%以上の確率で成功してきてます」

 

笑わない先生でした。

もごもご話す感じ。

でも優しい先生だった。

そのお礼のハガキは何故か毎回見せてくれました(笑)

 

その免疫療法しか挑戦することが残ってないのなら

やってみようかというより、もうやるしかないって感じでした。

 

そこで行っている免疫療法は、

パートナーの血液から、リンパ球だけを採取して

それを私に注射して移植していく方法です。

 

パートナーの精子が異物として排除されないように免疫を付けま

す。

 

腕に計20か所、間隔をあけて注射していきます。

一呼吸おきながら刺すとかじゃなく一気に刺していきます。

初めてしたときは「痛い」って言ってしまった。

 

その後ガーゼを当てて、少し休んでから帰ります。

これを期間をあけて計3回。

 

先生は妊娠しやすい状態にしておきたいから、と言って

「通気」という治療を勧めました。

卵管に空気をおくる治療→卵管を広げて精子を通りやすくする治

療です。

 

これも計3回 (涙)

通気治療、苦しいです。空気でお腹がパンパンになる。

でもこれもすべては、未来の我が子に出会うため。

ただそれだけ。

 

受診は不規則で、検査も併せて1日おきの時もあったから

私は一人で電車で通いました。

 

隣の県はわりと都会です。治療が終わった後、街を歩いたり買い

物したり、、、

治療が苦痛にならないように、、、

「今日もこれが終われば買い物ができる!」

そう思いながら通った日々でした。

 

その時に初めて、市電、っていうものに乗りました(笑)

 

 

それから数か月が経ち治療が終了。

 

やっと妊娠の許可が出ました。

 

「これでだめだったら、諦めようね。」

元旦那さんと決めました。

 

そして

最後の挑戦の始まりです。

 

 

読んでくださって、ありがとうございました(●・ω・●)

 


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不育症・私が子供に出会うまで

 

その始まり

 

 

こんな私にも宝物が。

 

それは中学生になる一人息子です。

20代後半で産んだ王子。

バカだって言われるくらい、それ異常だよって言われるくらいに

デレデレ。もう中学生なのに(笑)

 

そんな息子に会うまでに4年かかりました。

 

  

私は妊娠しやすく、20代で挙式を挙げた時に赤ちゃんは既に

4か月でした。

まさに幸せの絶頂。

 

そして定期健診のとき

6か月手前、ちょうど安定期になる頃でした。

 

そろそろ胎動っていうものを感じていいはずなのに

まだ感じなくて

 「赤ちゃんが動くのがわからない」って先生に問うた。

先生は「初産は分かりにくいもの。気付かないだけで元気に動い

てるはずよ」

 

そう言いながら私のお腹に超音波をあてたの。

 
そのとき、

  

 「んーー・・・赤ちゃんの心臓、動いてないねぇ・・・」

 

 って先生がぼそっと言った。

 

信じられなかった。

 

泣きながら診察室を出たのは何となく覚えているけど

その後はよく覚えてない。

 

  

人生で初めて味わった絶望と悲しみ。

 

  

毎日話しかけたり、お腹に手を当てたり撫でたり

大事に大事に気遣っていたことを思い出す。

愛おしく思っていた日々を思い出す。

  

何がいけなかったんだろう。

 

動きすぎたから?それとも食事が悪かったから?

なんでなんで?

 

いろんなことを思う。涙が出る。

 

もうお腹の中で赤ちゃんが大きくなっていたから

掻爬はできなので

 

自然分娩で

 

亡くなっている赤ちゃん、我が子を出産

いわゆる陣痛促進剤にて

死産をする運びとなりました。

 

1000グラムにも満たない我が子だったけど、

 

それでも、

 

死産であっても

 

我が子を産んだ私はママになりました。

 

死産の日 

うちの市内の産婦人科でも少々大きめなその綺麗な病院で


その日、小さな小さな我が子が誕生しました。

 

普通の自然分娩は自然に子宮口が開いてくるけど

私は初産なので、しかもまだまだ分娩時期じゃないから

子宮口は硬く硬く閉まっていて

 
自然に子宮口を開けるため、水分を含むと膨張して膨らむものを

子宮口に入れて

1センチになるのを待ちました。

 

その後、器具を使って強制的にグワーーーッと子宮口を広げるん

だけどこれがまた

声が出るほどに痛かった。。。こんな激痛感じたことない。

くらいの激痛。。

  

その後分娩室に移動して陣痛促進剤の点滴が始まった。

 

元旦那さんが付き添ってくれたけど、当たり散らしていたらしい。

だんだん痛くなってくる陣痛。

 

そこの産婦人科の分娩室は、横並びにいくつも分娩室があって

引き戸で仕切られていた。

 

だから隣では普通に妊婦さんがうーうーうなっているのが丸聞こ

えだった。

 

点滴しながらだんだん陣痛の痛みの間隔が狭くなってきて、

いてもたってもおられんで立ったり座ったり。

1000グラムにも満たない赤ちゃんでもこんなにも痛いのに

3000グラムってどんなんなんって思いながら痛みに耐えてい

たけど。

 

隣では看護師さんやら助産師さんの励ます声が

そしてやがて赤ちゃんが産まれたときの

「おめでとうございまーす!よく頑張ったね」

のスタッフの声とともに赤ちゃんの産声が。

 

なんともいえない気持ちだった。

 

私は亡くなった赤ちゃんを必死で産んでいる。

 

産まれた時は「おめでとう」

ではなく、「赤ちゃん出たよ」だった。

私の分娩室は、異様に静かだった。

 

あれほどに辛かったことは

あの頃の私には初めての体験だった。

  

私の赤ちゃんは

産んだ後、見せてはもらえなかった。

でも、「男の子だったよ」って先生が。

 

その後は何日が入院。

 
隣の病室から聞こえる赤ちゃんの泣き声が

たまらなかった。

夜中じゅう、涙が止まらなかった。

   

火葬のとき

私はまだ入院していてその場には行けなかったけど、

小さい小さい

「爪くらいの骨が残っていたよ。よかったね。」

って元旦那さんが。

それを小さな箱に入れて、ちゃんと納骨しました。

 

妊娠したら赤ちゃんは産まれるもの。

それは、決して当たり前なんかじゃなかった。

私はそのときはじめて知った。

  

それから4年にも渡る、私と元旦那さんとの

赤ちゃんを無事に産むための

あらゆる治療が始まった。

 

無事に赤ちゃんをこの世に出すための、長い長い道のり。

 

 

読んでくださって、ありがとうございました(●・ω・●)

 


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看護師になったきっかけ

はじまり

 

私は保育園のころ、奈良の病院へ入院したことがあります。

確か眼の病気だったと思います。

 

病室は6人部屋。

周りはみんな大人の方で

子供は私ひとり。

 

処置の時、大暴れしていたのを

今でも覚えています。

子供の力って意外に強いので

看護師さんたちも大変だったろうと思います。

 

そんな中

ある看護師さんが私のそばにきて

作ってくれたもの・・・

 

それは

白い画用紙で作ってくれた

小さなナースキャップでした。

 

それを私の頭にかぶせてくれた。

 

そのとき純粋に

「看護師さんって優しいんだなぁ」

そう思ったんです。

 

それから、私の将来の夢は

看護師さん(そのころは看護婦さん)

になりました。

 

そして成人したとき

私は看護学校へ入学し

看護師になることを決めました。

 

看護師への道

 

それから2年間

市内の病院へ就職。

午前は病院の外来、午後は学校

(下校後また病院へ戻り仕事)

 

という

働きながら学ぶ

という学生生活がはじまりました。

 

私のほかに二人、同期の子がいました。

いつも3人で行動です。

 

私たちは朝は誰よりも早く出勤し

外来の掃除から始まります。

(院内のクリーンスタッフの方は午後からし

来られないので)

 

雑巾をもって私たち3人は走り回ります。

床にある検査機器のコードから、拭いていきます。

 

先輩ナースたちが出勤するまでに

掃除と診察準備をすべて済ませておきます。

(かなり厳しかったので診察が始まる一時間半前には

出勤しておきます。間に合わないと雷が落ちます)

 

まだ免許がないので医療行為はできません。

助手としてできることは全てが仕事でした。

患者さんの前で叱られることもにも慣れました。

 

午後は学校でしたが、この時は唯一息抜きができる時でした。

学校生活は本当に楽しかったです(*´ω`)~♪

 

夕方学校が終わるとすぐに病院へ戻るんですが

とにかく急いで帰ります。

病院へ着いたら急いで着替えます。

(この時マッハで着替えて院内に戻らないと

いけません←遅いと叱られます(>_<))

 

学生なので細かいことから一つ一つ

厳しく鍛えられます。

 

帰宅したら今度は学校の課題と病院での課題。

2年目は一年間実習。

目が回りそうだったけど

諦めようと思ったことはありませんでした。

 

そんな2年間もあっという間に終わり

准看護師の免許を取得、無事卒業し

3人の進路はバラバラになりました。

 

私は進学せずにその時お付き合いしていた方と結婚し

いったん専業主婦となりました。

 

正看護師になるきっかけはまた別の記事に書きたいと

思います。

 

 

読んでくださり、ありがとうございました.(*^U^*).

 


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双極性障害と仕事

 オープンではたらく

 

私は看護師として働いていましたが

この病気をオープンにして働いていたことがあります。

最初はクローズで入職したんですが

欠勤が続いたことで話さざるを得なくなり

師長さんにカミングアウトしました。

最初はずっと言わないつもりでいたのですが・・・

 

初勤務早々調子が悪く

うつ状態でした・・・

そして休みがちになりました。

師長さんはとても心配してくれていたし

周りからも

どうしたの?

どうしたの?

と心配の声が・・・

 

そしてとうとう師長さんに病気のことを打ち明けたのです。

カミングアウト

 

師長さんに

「実は双極性障害(躁うつ病)なんです。

すみません。言えませんでした。」

 

病名を伝えると師長さんは驚いて

「え?なにその病気は」

 

まだまだ認知されていないんだなぁー・・

そう思いながら

「あ、躁うつ病のことです」と言うと

その後すぐうなづいて話を聞いてくれました。

 

そして

「なんで最初に言わなかったの?」

とちょっとだけ叱られたんですが

正直心の中で「言えるわけがない」

そう思いました。

 

そして

とりあえずは院長に報告するとのこと。

「ああ、クビだわたし・・・」

 

 

その後少しして師長さんから呼び出しがあり

「とりあえず診断書持ってきて」と言われました。

勤務時間の変更、その後の配慮について

 

診断書を提出後、話し合いの結果

 

師長さんに

「体調を考慮した勤務が可能だよ」

と言われました。

 

クビだと思っていたのでとても嬉しかったです。

 

そして勤務体制はフルタイムからパートタイムになり

時間も午後から四時間とのこと。

 

うつ状態で朝とても調子が悪かったので助かりました。

とても気持ちが軽くなりました。

 

それからはその勤務体制で働き

体調がいいときはまたフルタイムで働きました。

勤務中に体調が悪くなると気兼ねなく早退させてもらい

どうしても調子が悪い時は欠勤も認めてもらい

小さなことからとても配慮していただきました。

 

そこの職場は、何年か勤めて退職したのですが

オープンでも働ける職場があるんだと実感しました。

 

退職した今でも

とてもとても感謝しています。

 

ありがとうございました((ヾ(○・ω・)ノ☆・゚::

 

 

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