仲間と歩く、あみいの日記☆

双極性障害あみいのひとりごと~

看護師への道

新たな始まり☆

父の死から数年がたち

私は子供を出産し

子供が三歳になったころ

私は正看護師の資格をとるため

全日制の看護学校へ入学した。

準看護師の資格を持った人たちが入る看護学科へ。

 

年齢層は幅広く、私は中間くらいの年齢。

二年間の学生生活。感覚としては大学のような感じ?

一学年の時は学課のみ。自由で楽しく充実した日々。

笑顔に溢れた毎日だった。

 

特に楽しかったのは体育祭や学園祭。

青春な時間だった。

 

学課の単位を落とさないようにテスト週間はビクビクな日々。

再々試を落とすと単位を落とし留年になる。

準看時代と同じように、子供を寝かしつけた後にテスト勉強や課題を済ませていた。

 

再試代一回2000円。高い(泣)

 

進級するのは大変だった。

自然と互いが助け合う日々。

 

最初はバラバラだったクラスの中も

二学年に上がるときには一つになっていた。

気付けばみんなが仲良しだった。

 

春が来て、

二学年に進級したとともに私は元旦那さんとは別々の道を歩むと決め、子供を連れて実家へ帰った。

 

それから

学校までの電車通学が始まった。

家から駅までは自転車での移動だった。

まさかのハプニング☆

 

四月の半ば。

次週から実習が始まる時。

 

その日、

駅から帰宅するとき私は本屋に寄った。

いつもと違う道を通った。

 

もう夜になっていて辺りは暗かった。

自転車は無灯火。知らない道だった。

 

そこに川があるとは分からなかった。

見えなかった。

 

本屋からいつもの道まで出ようとしたその時

 

私は自転車ごと川に転落した。

そこは道じゃなく川だった。

深くて大きな川だった。

 

しばらく気を失っていたんだと思う。

痛さで気が付いた。

水はあまりなく、自転車は離れたところに飛んでいた。

 

すぐに川に落ちたと理解した。

立ち上がることはできたけど両腕が痛かった。

歩いて階段を探したけど無かった。

でも上がれるような高さじゃない。

 

カバンはどこかへ飛んでいて無い。

幸いなことに携帯はパーカーのポッケに入れていたから

痛い手で携帯から母親に電話をかけた。

 

「川に落ちた!すぐに迎えに来て!!」

 

母親と息子が慌てて迎えにきた。

でも川が深くて私を引き上げられなかった。

 

すぐに救急車を呼んで、はしご車も来て

私は市内の一番大きな病院へ運ばれた。

 

救急センターでの処置が始まった。

私の周りにたくさんの医師や看護師が集まってきた。

その時は、自分の体がどうなっているのか分からなかった。

 

全身泥だらけ、とにかく顔と両腕が痛かった。

 

どうやら顔から落ちたらしく、顔面に多くの傷が。

両腕は骨折していた。

 

足や頭は奇跡的にも無事だった。

 

診断は

顔の傷は唇に一部残るくらい。

右手は単純骨折、左腕は粉砕骨折だから手術しないといけないとのこと。

 

すぐに学校のことが頭に浮かんだ。

来週から実習。今入院なんてできない。

 

「入院したくないです。」

そう言ったのを今も覚えてる。

 

その時にいた整形外科の医師がのちに私の主治医となるT川先生。

全身を診てくれたのは外科のM上先生。

唇の縫合をしてくれたのは形成外科のR先生。

 

整形外科のT川先生に

「来週から実習があるので入院したくないです。嫌です」

そう言った。

するとT川先生は、はっきりと言った。

「手術するかしないかは患者さんの自由だから。こちらは強制しないけど、でも手術しないとその腕、一生使い物にならないよ」

 

絶望感でいっぱい。

 

それじゃあ看護師の仕事できないじゃん。

 

私は泣く泣く手術することに同意。

その日から入院生活が始まった。

 

長い長い遠回りが始まった。

 

  


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