それでも私の祖母だから。☆双極性障害☆
今日の祖母は不穏が強く、いつもと違ってた。
ばあちゃん?どうしたの?
いままでこんなことなかったのに。
認知症が進んでるのは分かってた。難聴が認知長を加速させていることも。正直、私は祖母は認知症にはならないと思っていた。一人暮らしだったけど出来ることは几帳面に、何でもこなす人だったし、そして頭のいい人だった。
でもいつからか難聴がひどくなり、補聴器を付けなければ会話が出来なくなった。
やがて、補聴器を付けていてもそれでも会話が難しくなり、電話もできなくなった。
今思えば、補聴器についてもっと親身に慎重に、よりいい方法があったのかも知れないと後悔しかない。
何より、一人暮らしで本人は電話もできず、社会的交流も減り、聞こえないものだから家族が来ても会話に参加することができず、周囲との情報量が激減して、ある意味、祖母は独りぼっちだったのかも知れない。
なぜもっと会いに行かなかったのか、色んなところへ連れて行ってあげなかったのか、悔やんでももう遅いの?遅いかも知れないけどこれから、心を込めて尽力していきたい・・・
今日の祖母は私の腕を引っ張り、起きようとするの。自力で柵まで寄ってきて「家に帰ろう、連れて帰ってくれさん」とすごい勢い。こんなに強い力、まだまだ残ってて・・・すごいね。ばあちゃん。それ程に早く家に帰りたいんだね。
もう帰ることはできないと、私は決して言わないし否定もしないけど、祖母の中では家では祖父が待っていて、息子も生きていて、私はまだ子供なんだ。
祖母は今日はご飯も食べずに、それでも薬だけは飲んでもらおうと、お粥さんに混ぜて、なんとか頑張って食べた。ほんの三口くらいしか食べなかったけど、昔から確か好きで飲んでいたグリコのカフェオレを買っていったら、思い出したのか、それだけは飲んだの。嬉しかった。自分から飲もうとしたの。
でも表情はまた険しくなり、少々の暴言も現れたけど、それでも私は祖母の手を握って、補聴器をつけても聞こえない耳にめいいっぱい近づいて会話をした。補聴器ってこんなにすぐ電池が切れるものなの?こないだ交換したばかりなのに。
何とかこの補聴器どうにかならんのだろうか。会話ができるのと出来ないのじゃ気分も全然違うものだ。
今日の祖母の不穏は、きっと何か、不安や心配事、不快なこと、何かに混乱しているんじゃないかと思う。必ず理由があると思う。動脈瘤のことが不安なのかもしれないし、背中が痛いことも・・・病気だけど、今は亡き祖父のことが心配なのかもしれないし、「じいちゃんが家で待ってるから」って。
どんなに険しい顔で私を見て、暴言を吐いたとしても、それでも大好きな祖母。不穏が進んで暴力が出てこようとも、私の気持ちは何も、ひとつも変わらない。
今日の祖母の不穏のことでふと思い出したんだ。
看護実習の時の、初めて患者さんを受け持った時のこと。
受け持ち患者さんは、不穏が強い認知症の患者さんだった。
コミュニケーションをとるのも難しく、にこりともしてもらえずとうとう暴力が出た時に、受け持ちを変更するか学校の先生に問われてナースステーションの隅で泣いたことがあった・・・これ以上受け持つことに自信がなかった。
でもそれは、患者さんとちゃんと向き合ってないからじゃないの?って先生や看護師さんに助言を受けたんだ。
私は患者さんとちゃんと向き合うことを決めて、一か月の受け持ち実習に耐えた。どんなことがあろうとも、消して患者さんを否定せず、快、不快、不安要素がないかに視点をあてて、アセスメントしながら一か月を乗り切った。
そして、その実習が終わる頃、カンファレンスで「そういえば最近〇〇さんの不穏少なくなったよねぇ」と聞いた。そして最後の最後に、看護師さんが言ったんだ。「〇〇さんが最近穏やかになったのは、学生さんのおかげなのかも知れないね・・・」
その時は泣きそうなくらい、嬉しくてたまらなかった。諦めずに向き合い続けてよかったと思った。
それを思うと、私は決して祖母の不穏から目を背けずにちゃんと向き合わないとだめだって思ったの。私を母親代わりに育ててくれた祖母になんの恩返しもできなかった自分を恥じてる今、これからできることは何でもさせてほしい。
娘であるおばちゃんには「〇〇ちゃんは孫なんだからそこまでしなくてもいいのよ」って言われても、「私がしたいから、会いたいから」
そう言いきってできるだけそばにいたい。
明日は笑顔かな。また不穏かな。どちらにしろ、ありのままの祖母を愛してる。大丈夫だよ。明日も会いに行くからそれまで待っててね。もう一時。おやすみ☆
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鬱、来たのかい?☆双極性障害☆
躁の反動で来たのかい?もう鬱が。
大して続かんかった煌びやかな躁の期間まったく短かすぎ。
今回の躁の反動で来た鬱期はどうか短く終わりますように。体に鉛がのっかってるの重くて気力のメーターはマイナスになってる。早くフラットに戻ってほしい。
躁は体が軽くなって気力も湧いてきて世界も明るく見えるけど、そのあと必ず鬱が来るから、だから嫌なんだ。みんなそうだよね?前はそれでも、鬱期が長かった時は躁が来るのを心待ちにしてた。なんとか上がる方法いろいろ探したりしてたんだ。
今日は祖母のところへ行けなくて、ずっと寝込んでたんだけどすごく嫌な気分。いくら鬱期が来たからって、会いに行けなかったこと、、すごく罪悪感感じてる。一日でも多く一緒にいたいのに。今は自分じゃなくてばあちゃんなのにね。こんなあたしよりずっとずっと、ばあちゃんのほうが辛いんだってのにね。
きっと待ってたろうなぁ。ごめんね。
明日は必ず会いに行く。待っててね。おやすみ☆
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眠剤足りない・眠れん☆双極性障害☆
なんということか。
昼間、やりきれない気持ちになって飲んでしまった眠剤何日か分、たまにプチODほんのプチした分。そしてまた間違って捨ててしまった分。あほすぎ自分。
そのせいで今日も全く眠れないけどこれどうしようか。
ここで抑肝散飲んでも眠れないし。フルニトラゼパム、一錠で頑張るって主治医に言ったけどやっぱり2錠じゃないと中途覚醒しちゃうからだめで、それで余計に眠剤不足という・・・
まだ軽躁のはず。余計眠れんのだろうなぁ。もう一時。明日は午前中か昼間にお見舞いにいきたいから早く寝ないとって焦って余計眠れん。
とにかく朝ちゃんと起きれるように夜はしっかり眠りたいから眠剤はしっかりと処方してもらう。
こんなことなら、ばあちゃんのそばで付き添いベッド借りてそばにいる方がよっぽどいい。
ばあちゃん、ちゃんと眠れてるかな。夜は余計に寂しいんだろうな・・・ばあちゃんが病気になって神様は意地悪だってすごく思う。何で残り少ない人生、最後の最後まで痛くて辛くて寂しくて不安な毎日を過ごさないといけないの?
今日の日記終わり。なんか切ない。オヤスミ。
白衣の天使☆双極性障害☆
錆びないナースでいてね
今日もばあちゃんの病院へ会いに行った。
今日は認知がひどかった。
それでも、大動脈瘤のことだけは、やっぱり忘れてない。
もうすぐ、自分の命が少なくなっていることも、ちゃんと解ってる。「さいさい来ないと、ばあちゃんもうすぐ死ぬよ?」なんていう。
今日はじいちゃんも父も天国へ行っていることも完全に忘れてた。だからといって、「もう亡くなってるじゃん」なんて言えない。
少しずつ忘れていくことで死からの恐怖から逃れられるなら、その方が幸せなのかなぁとも思う。
今日は金曜日。夕方の食事介助の時に、見るからに看護学生さん?っていう感じ?
家族への挨拶の仕方や患者さんへの対応を見ていて、思わず「学生さんですか?」って聞いた。
「はい。まだ準看の学生ですけど(#^.^#)」
いちばん純粋で、患者さんを第一に考えられる時。
患者さんにとても丁寧で大事に接することができるとき。
その学生さんが退出したとき、ばあちゃんが「今の人はなんていうひと?名前」って聞いてきたの。
「後で聞いとくからね」っていってそのまま会えないかと思ったら、帰るときの駐車場で偶然出会って、「祖母があなたの名前知りたがってたんだけど、教えてもらえますか?」って聞くと快く教えてくれた。
ばあちゃんは、患者さんは、ちゃんと解ってる。よく見ている。
錆びてしまったベテランナースには、思い出してほしい。昔自分も純粋に患者さんを想っていたこと。
そのうち免許を取ってしばらくしたら、義務的になるナースもいるんだいくらでも。
そんなふうにならないでね。錆びない天使でいてね。
その本物の笑顔が、患者さんにとっては本当に嬉しいんだ。って
心の中で思った。
学生さんがいてくれてよかった。なぜって、学生さんのほうが丁寧に正確に、ばあちゃんに接してくれるから。看護してくれるから。
午前はおばちゃんが見舞いに来て食事介助してくれてると思うから、午後はなるべく私が行く。ほぼ毎日いかないと、今は自分じゃなくてばあちゃんだからね。
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軽躁なんかよくわからん☆双極性障害☆
一週間前くらいから軽躁になったと思う。
たぶん、ほぼフラットか、軽鬱から上がっちゃったと思うんだけど、上がったってことはいずれ落ちるんだよね。
嫌だ。。。
落ちると困る。
結構自分でも、あー今上がってるなーって思ってたら、親友も「上がってると思ってた」って
やっぱり周りから見たらよく分かるもんなんだね。
結構出かけたり本を何冊も買ったり、外出が増えたこともあるし
友達や親友と会った時もよく喋ってたし
ただ
今、就活中という名の引きこもりだった状態から
たまたま、ばあちゃんが入院したためにほぼ毎日病院に会いに行くんだけど、三日続けていくともう電池がきれちゃって会いに行けないんだよね。
休み休み見舞いに行く感じ。
朝から一日中寝込む感じ。それってまるで鬱じゃん?
もしかしてもうこれ鬱に下がっちゃったん??
昨日は会いに行けたけど今日は行けなかった。
一日寝込んでずっとお布団・・・(T_T)
犬の散歩ももちろん行けず。
いろんな考え方があると思うんだけど
ばあちゃんのお見舞いに通う習慣づけが、就活に向けてのいい意味でのリハビリになってるとしたら、何て皮肉なんだろうって・・・思うんだよね。
でも、もしかしたら、鬱期に入ってるかもしれんけど、それでも変わらずばあちゃんには会いに行く。父の時のように後悔したくないんだ。
最近お酒もほとんど飲んでない。
ご飯と一緒に梅酒一杯ぐらい。
今回躁になったことはすぐに手帳に書いておく。
次回受診したときに主治医に伝えないとね一応。
でもこういう感覚久しぶり。上がった感覚。
だけど、鬱もあるようなないような、ただ疲れで鬱ぽくなってるだけかもだけど。まだ様子見ないとよくわからん。
もう22時。前はまだまだ夜はこれからって感じだったんだけど今はもう寝る時間じゃんって思う。
何度も思う、いくら躁鬱でずっとヒッキーしてたとしても、ばあちゃんに会いに行くことを疲れるなんて思いたくない。
でも、正直早く体力付けて出来れば休まず会いに行きたい。
そろそろ眠剤ゾルピデムとフルニトラゼパム、あとビプレッソ飲んで横になる。
本当に躁鬱なんかなあ?って思ったりしてたけど、明らかに躁鬱なんだなあって思った。あの上がった感覚は独特だね。でも躁鬱じゃなかったとき、なる前もあったわけだし、うーん不思議。
てな感じで今日は躁になったと思う。たぶん。な感じの記録でした。
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ばあちゃん②☆双極性障害☆
こんばんは☆
昨日はダウンしていてお見舞いに行けなかった。
体力づくりのため明日から犬の散歩をとうとうする決断をしたんだけどできるかね。
今日病院へ行ったらばあちゃんのベッドの下にマットが。
ああ、転落したんだなあ。
すぐにわかった。自分で柵を外して転落したらしい。
ばあちゃんはやっぱり少し認知が入っていて、今でも歩けると思ってる。
毎日、家に帰るという。私のことは分かったり分からなかったり。すでに亡くなっている友達の名前を言ったり、またみんなで集まろうって言ったり。
帰ったら自慢のお寿司をつけるからって。
否定したらいけないから「そうだね」って私は言いう。
夕方になってきてまた、家にいのう(帰ろう)って言うから、「今日はもう暗くなるからまた明日にしようね」って笑顔で言う。そんな会話の繰り返しが何度あっても私には愛おしくてたまらん。
食事は半介助で全量摂取。血圧の内服OK。
アイスクリームが食べたいらしいから明日買っていく。
明日はチビも連れていく。
事情を息子に話したら、なるべく会いに行きたいと言うから、案外いい子に育ったのかな。。。
ばあちゃんは自分の顔を触ったり、足や手を触ったり、「骨と皮。あはは」って。私が行くときは食介完璧にするから大丈夫よ。
いまでもわたしに「小遣いやろう」とか言う。
子供と同じように、孫もいつまでたっても子供のままなのかもね。
ばあちゃんはずっど動脈瘤が気になって触ってるのがもう癖になっていて、やめられない。「これなんだと思う?」とか「ばあちゃんもう死ぬんじゃろう?」と言われたときも「そんなことないよ」と言うしかない。
でも自分ではすべて、解ってるんだよね。本当はね。
神様は意地悪。なぜ、他のちょこちょこ忘れていてもいいことは忘れていて、動脈瘤のことは忘れてないのよ?
それさえ忘れていたら、今、24時間、恐怖と闘わなくてもいいのに。どんな気持ちでいるの。
母親が仕事へ出かけていたからいつもばあちゃんが育ててくれてた。
ばあちゃんが作ってくれたおやつを美味しそうに食べる私をみてとても嬉しそうに笑っていたあの顔は、今でも忘れられない。
どんな時も味方でいてくれた。編み物も教えてくれたし、何不自由ない生活をおくらせてくれた。
私が「今日のご飯おいし~幸せ~」って笑うとばあちゃんがすごく喜ぶ。いま、思い出せば忘れられない事ばかり。
孫は私を入れて5人。私が一番下だった。
でも一緒に住んでいたせいか、本当に溺愛してたんだよね。
帰るとき、「また来るからね」っていったら
「○○ちゃんがきてくれるのが一番うれしい」と弱弱しそうに言って手を合わせて「ありがとう」って言うのよね。
初日行ったときは、人生ってなんなんだってそればかり考えてたけど
今は少し違って、私じゃない、自分じゃなくて、ばあちゃんは、ばあちゃんの人生について今、何を感じて何を考えているんだろうって思う。
もう少しで終わるかもしれない人生に今、何を思ってるんだろう。今日はそればかり考えて、もう涙が止まらん。
訂正←95歳。
看護学校の時に老年の先生が言ってた。
その先生は施設にいたんだけど
80歳になっても90歳になっても、それでも「もう十分生きたから死んでもいい」といった人は一人もいなかったそう。
いくつになっても人は生きたい。
ばあちゃんは自分の歴史を、生きてるんだなあ。
私は父の娘だった。とういことは私の命はばあちゃんがくれた。
せっかくくれたこの命、粗末にしたらだめだよね。
でも、もしものことを考えたら向き合えん認められん。
でも
明日も会いに行くから。
待っててね。
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